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なぜ「レコ大」では”1年を代表する曲”が大賞に選ばれないのか…いまも注目度が高い「紅白」との決定的な違い
今年も「紅白」が話題になる季節がやってきた。NHK紅白歌合戦。近年衰えてきたとはいえ、昨年も30%前後の視聴率を記録し、司会や出場者についての選考も依然として高い関心を集める怪物番組だ。
そんな「紅白」と同じ大晦日に生放送されていたのが「レコ大」こと『輝く!日本レコード大賞』(TBS系)。
前者が夜9時から、後者が9時数分前まで放送されていた時代には、こんな伝説も生まれた。連続して出演する歌手がそれぞれの会場を移動する際、車をパトカーが先導したり、信号が全部青に変わったりするというものだ。
作詞家の阿久悠はこんな話をしている。
「『紅白』ではある時期からレコード大賞を獲ったということを登場歌手を紹介する際に言うようになった。『紅白』の会場にいるお客さんは司会者の紹介で初めてだれがレコード大賞を獲ったのか知るわけです。すると観客の歓声と拍手ですごく盛り上がる。(略)そうすることで『紅白』とレコード大賞の両方の価値が出てくるんです。相乗効果なんですね」(『紅白50回~栄光と感動の全記録~』)
このパターンはやがて廃れたが、これに憧れて復活させたのがみのもんただ。2005年に61歳で念願の司会に起用された際、倖田來未の曲紹介で「レコード大賞、おめでとう」という言葉を入れた。
しかし、みのがあと一年、起用されるのが遅ければ、この復活はなかった。2006年から「レコ大」の放送は12月30日に移動したからだ。
1977年には50%超えも記録した「レコ大」の視聴率は、平成に入ったあたりから右肩下がりとなり、倖田が受賞した年にはついに10.0%まで低下。
フジテレビ系の格闘技中継『PRIDE男祭り』や日本テレビ系のバラエティー『ピン子のウィークエンダーリターンズ』にも負けたことで、見切りをつけたかたちだ。
二部制を導入した「紅白」が「レコ大」と衝突
きっかけは、怪物同士の衝突だ。元号が昭和から平成に変わった1989年「紅白」は二部制で放送。第一部の開始を7時20分にしたことで「レコ大」と放送時間が重なることとなった。
NHKは時代の節目であることなどを理由に「紅白を上回る企画があれば、来年からでも紅白をやめたい」(放送総局長)と公言していたため、この年が最後となる可能性もあったが「紅白を上回る企画」は見つからなかったようで、翌1990年も二部制を継続。
しかも、第一部を懐メロで構成した1989年と異なり、第一部から最新のヒット曲が繰り出される本格的な二部制だ。TBSは「まさか今年もとは思っていませんでしたよ。公共の電波であるNHKが視聴率稼ぎの方向に走ってはね」(制作部長)と皮肉ったが、それ以降「紅白」の二部制は完全に定着した。
一方「レコ大」も多様化する音楽シーンに対応するため、1990年に二部門制(歌謡曲・演歌部門とポップス・ロック部門)を導入。しかし、わずか3年で元に戻すなど迷走状態となった。
1988年まで20%を超えていた視聴率は1989年から10%台となり、いよいよひとケタが見えてきたところで大晦日から撤退したわけだ。かつてうまく連携していた両者はこうして関係がこじれ、阿久悠のいう「相乗効果」も失われていった。
誰もが知るヒット曲が減り「紅白」どころかテレビに出たがらない歌手が増えるにつれ、人気は低迷。あれだけ乱立していた賞レース番組は90年代以降、終了するか、別の形の音楽番組として生き残った。
別の形とは現在の『FNS歌謡祭』のように、その年のヒット曲や現役バリバリの歌手にこだわることなく、アーティストの優劣も決めず、なんでもありの音楽フェスとして構成するやり方だ。
(中略)
特に決定的な分岐点となったのが、2003年。この年はSMAPの『世界に一つだけの花』が大ヒットして、最終的にはトリプルミリオン(売上300万枚)に到達するスタンダードナンバーとなった。
しかし、所属するジャニーズ事務所(当時)は「レコ大」が二部門制を導入していた時期に賞レースから撤退。
このときも賞を辞退することとなる。そのかわり、浜崎あゆみが『No way to say』で史上初のレコ大3連覇を果たしたが、それほど盛り上がらなかった。
象徴的なのは、辞退理由のなかにあった「ナンバーワンを目指すよりはオンリーワンを大切にしたい」という言葉だ。『世界に一つだけの花』のメッセージを地で行く理由だったわけだが、この曲が大ヒットしたこと自体「レコ大」の存在価値を揺るがすものだったといえる。
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